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夢をみた。
目覚めたときにはもうぐったりしているような種類の夢だった。内容はおぼえていないけれど、部活の夢ではなかった。

あの日を境に、部活で怒鳴られている夢は見なくなった。すなわち、楽器を返してもらった日だ。

高校に進学したわたしはマインドコントロールされたかのようにおなじ部活に入った。手には真新しい楽器が握られていて、それはコンクールの結果とわたしたちの写真が地元新聞に載ったことに気をよくした母が卒業コンサートに合わせて買ってくれたものだった。

うれしかったというよりも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。まだ子どもだったわたしに代わって表現するならば、これは親への負債であり、この負債のために未来永劫搾取されつづけるという予感だった

高校の部活はすぐに辞めてしまった。というよりも高校自体、通うことができなかった。朝、家を出て学校に行きホームルームで出欠をとったあと保健室へむかった。市販薬で熱が下がったとか、生理痛で吐きそうだとか適当なことを言って早退し、下校時刻になるまで街や友だちの家で過ごした。卒業できたのは奇跡だったとおもう。

楽器は、部活を辞めたことを聞きつけた顧問に請われ長きにわたり「貸す」ことになった。
親への負債である楽器が恐怖の元凶である顧問の元に人質として渡ったことで事態はいっそう複雑になったのはいうまでもない。

社会人となり転職と転居を重ね、名前も変えたわたしは、この悪夢のような現実に終止符を打つべく、決死の思いで顧問を呼びだしたったひとりで楽器を返してもらう。実に15年ぶりだった

元・顧問から手渡されたのは銀メッキが剥がれ、ところどころに傷を負った楽器だった。ほとんど使ったことがないけれど、わたしの楽器だとかんじた。

帰りの電車の中で、いやぁ、すまなかったねぇと言ったきり、菓子折りひとつ持ってこなかったあいつはやっぱり人間失格だ、連盟の理事が聞いて呆れる、とこころの中でおもいきり悪態をついて笑った。

楽器はいまもわたしが持っている。押し入れにしまってある。吹くことはない。あと15年くらいすれば吹く気になるかもしれないけれど、いまのところその予定はない。
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post time: 22:59, category: わたし(たち)の記憶, author: ナカムラユエ

中高の6年間、担任からは教師になるよう勧められましたが、大学に進んだわたしは教職課程の履修を考えたことは一度もありませんでした。なぜならば学校がきらいだからです。正確にいえば教師というおとなと、クラスメイトという子どもがきらいなのです。みずから学ぶこともひとに教えることもきらいではありません。

世の中のたいていのことは見てきたような冷めた顔をし、斜に構えておとなを小馬鹿にするいけすかない中学生となったわたしを、たいていの教師は珍獣でも扱うようなかんじで社会問題の議論をふっかけてきたり、あるいはまったく無視して授業をすすめていきました。けれどもひとり、部活の顧問だけはちがっていました。

――あいつはぜったい、将来ろくでもない人間になる。

クラスメイトにそう伝えたと言います。

彼の「指導」はこうです。とにかく怒鳴ること。廊下を走った、課題を忘れた、授業態度が生意気だ、そういったことを他の教師から聞くたびに、校内放送でわたしを呼びつけ怒鳴りつけます。昼休みは職員室に呼び出されるために存在しました。それは学年が上がるにつれてエスカレートしていきました。後輩たちが廊下を走り、課題を忘れ、生意気な授業態度をとるたびにわたしが呼び出されるようになったのです。このころになるともはや部員もクラスメイトもなく、学校中が密告者であり敵となりました。さらに悪いことには、部活ばかりで勉強をしないといって家でも実母がわたしを責めるようになりました。

唯一気が休まる場所は進学塾でした。ここでは成績という公平な物差しで接してくれます。おなじ学校の生徒はひとりもいなかったにもかかわらず、どういうわけかわたしが塾で他校の男子生徒とちゃらちゃら遊んでいるといううわさを耳にした教師は、塾とはべつにまいにち3時間の家庭学習を義務付けノートの提出を課しました。夜10時に帰宅し、どんなにいそいでも終わるのは夜2時です。そこからお風呂に入り寝て、翌朝6時に起きて部活の朝練習に向かわなければなりません。休み時間にクラスメイトと語らうことなく本を読んでいるのも問題となりました。授業時間以外の読書が禁止されたため、わたしは実質的にいっさいの読書の機会を奪われました。年中胃がきしみ、中学生にして胃薬を常用、定められた量では効果を得ることはできませんでした。給食はほとんどひとにあげました。夜ごと悪夢をみました。悪夢は卒業後も十五年ほど見つづけました。

おとなになって振り返ってみれば、教師はひとまえで一人を怒鳴ることによって全体の綱紀粛正を図っていたのだとわかります。たしかに綱紀粛正にはなっていたのかもしれません。学校創立以来はじめて関東大会で1位になり、小規模校の奇跡といって地元新聞の文化欄に大きく取り上げられることになりましたから。

そしてわたしは教師の当初の予想通りろくでもない人間に成り果てることができました。男性に怯えて精神科に十数年も通い、休職と転職を繰り返して低賃金に甘んじるしかなく、自殺だけを目標に生きるような未婚の、子なしの、人間のクズです。

教師はいまも地元の熱心な教育者として連盟の理事に名を連ねています。
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post time: 15:17, category: わたし(たち)の記憶, author: ナカムラユエ

実父母はよく怒鳴りあっていました。きっかけは些細なことであってもさいごには掴みあい、殴りあい、たがいに呪いのことばを投げつけることでしか収束させられませんでした。子どもが泣いてもお構いなし、ただ殴る相手が増えるというだけです。

すぐ怒鳴り、罵り、殴る、実父は弱いひとでしたが、実母もまた弱いひとでした。夫の暴力と女遊びに耐えかねて、まだ幼い娘を相手に繰り言をはじめるのです。おかげでわたしは小学校入学前までに浮気、不倫、水商売といったことばを、9歳までに愛人、隠し子、腹違い、堕胎、離婚といったことばを覚えました。母からはつよく口止めされていました。わたしは口を真一文字に結んで両親のどうしようもない真っ暗な現実をランドセルにつめ、この世に生を受けながら光を見ることなく死んだというふたりのきょうだいとともに学校に向かうのです。学校では友だちはできませんでした。

父や母の外面のよさがいっそうわたしたちを混乱に陥れました。親戚や近所のひとのいるまえでは円満な家庭を演じるのです。その中で、父は勤めていた一部上場企業の会社での信頼も厚く全国を飛びまわる一家の大黒柱で、しごと熱心のあまり子どもの学校行事に参加できないことが唯一の難点でした。母はにこやかに家事をこなし、放課後に時間をあわせて愛車を校門に横づけし、習い事や学習塾への送り迎えを日課にするほど教育に情熱を注いでいました。地方銀行のパート勤めは家計補助などではなく、もっぱらみずからのキャリアのためでした。

この家の子どもたちはとても従順でおとなしいようすでした。親戚の同年代の子どもたちが飛んで回ってお菓子を食べ散らかしている間、この家の子どもたちは家人に勧められた分だけ箸をつけ、膝を崩すこともなく国語ですとか、お習字をしましたとかそっと質問に答るのでした。

父は家に寄りつかなくなりました。いればかならず母と喧嘩になります。父に捨てられたわたしたちは母にまで捨てられてはなるまいと、必死で母の気に入ることをします。つまり、父を悪者にするのです。努力が功を奏し母はわたしたちを捨てませんでした。それに父が家にいる間、攻撃の急先鋒はわたしに代わりましたから、母は殴られずに済むようになりました。盆、暮れといった行事に戻り、表に出てはあったか家族ごっこをする習慣はつづいていました。

あれから二十年以上が経過しますが、わたしはいまだにこのひとたちとうまくはなすことができません。養子に出ることで縁を切ったにも関わらず。父が好んで聞いていた荒井由実の曲が流れてくると胃とこめかみがきゅっと縮まるのです。
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post time: 14:00, category: わたし(たち)の記憶, author: ナカムラユエ