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実父母はよく怒鳴りあっていました。きっかけは些細なことであってもさいごには掴みあい、殴りあい、たがいに呪いのことばを投げつけることでしか収束させられませんでした。子どもが泣いてもお構いなし、ただ殴る相手が増えるというだけです。

すぐ怒鳴り、罵り、殴る、実父は弱いひとでしたが、実母もまた弱いひとでした。夫の暴力と女遊びに耐えかねて、まだ幼い娘を相手に繰り言をはじめるのです。おかげでわたしは小学校入学前までに浮気、不倫、水商売といったことばを、9歳までに愛人、隠し子、腹違い、堕胎、離婚といったことばを覚えました。母からはつよく口止めされていました。わたしは口を真一文字に結んで両親のどうしようもない真っ暗な現実をランドセルにつめ、この世に生を受けながら光を見ることなく死んだというふたりのきょうだいとともに学校に向かうのです。学校では友だちはできませんでした。

父や母の外面のよさがいっそうわたしたちを混乱に陥れました。親戚や近所のひとのいるまえでは円満な家庭を演じるのです。その中で、父は勤めていた一部上場企業の会社での信頼も厚く全国を飛びまわる一家の大黒柱で、しごと熱心のあまり子どもの学校行事に参加できないことが唯一の難点でした。母はにこやかに家事をこなし、放課後に時間をあわせて愛車を校門に横づけし、習い事や学習塾への送り迎えを日課にするほど教育に情熱を注いでいました。地方銀行のパート勤めは家計補助などではなく、もっぱらみずからのキャリアのためでした。

この家の子どもたちはとても従順でおとなしいようすでした。親戚の同年代の子どもたちが飛んで回ってお菓子を食べ散らかしている間、この家の子どもたちは家人に勧められた分だけ箸をつけ、膝を崩すこともなく国語ですとか、お習字をしましたとかそっと質問に答るのでした。

父は家に寄りつかなくなりました。いればかならず母と喧嘩になります。父に捨てられたわたしたちは母にまで捨てられてはなるまいと、必死で母の気に入ることをします。つまり、父を悪者にするのです。努力が功を奏し母はわたしたちを捨てませんでした。それに父が家にいる間、攻撃の急先鋒はわたしに代わりましたから、母は殴られずに済むようになりました。盆、暮れといった行事に戻り、表に出てはあったか家族ごっこをする習慣はつづいていました。

あれから二十年以上が経過しますが、わたしはいまだにこのひとたちとうまくはなすことができません。養子に出ることで縁を切ったにも関わらず。父が好んで聞いていた荒井由実の曲が流れてくると胃とこめかみがきゅっと縮まるのです。
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post time: 14:00, category: わたし(たち)の記憶, author: ナカムラユエ

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