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母が死んでから、わたしのこころはことばを持たなくなった。

よい方にとらえれば、これは朗報だ。
こころなど、悲観的な感情を嵐のように巻き起こすだけの存在なのだから。

けれどもわたしはちっともよい気分にはなれない。
むしろ息がつまるような思いがする。

この凪には腐臭がただよう。
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post time: 23:00, category: 日常, author: ナカムラユエ

母の夢をみる。

夢の中で母は、元気なこともあれば、病気で寝たきりだった晩年の姿のときもある。いづれにせよ、母の思うとおりに生きないわたしを裏切り者と責めるのだ。

目が覚めたあとがつらい。母亡きいま、関係は修復しようがない。

在宅での母の看病が限界を迎えていた、ちょうど一年前、わたしの疲労と絶望はピークで、そのときはいまとは真逆の夢をみていた、つまりは真綿にくるまれるような幸福な夢。

そのときも目が覚めたあとがつらかった。逃れようのできない、母との1対1での看病という現実が、肉体的にも精神的にものしかかってきて、思わず悲鳴をあげるほど。

なにがたのしくて生きているのだろうな、とおもう。

しばし考えて、もはや、生きることにたのしみを求めていないことに気がつく。

たのしくなくても生きていければ、それでいいのではなかろうか、生きていければ。

白昼夢は自殺企図。
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post time: 23:05, category: 日常, author: ナカムラユエ

母は死にました。

死んでから半月が経つけれど、わたしは家から一歩も出られず、だれにも会いたくなく、なにも食べたくなく、じぶんがいまなにを感じ、なにを欲しているのかまったくわからず、唯一わかることといえば、「セルフネグレクト」ということばは言い得て妙だなということくらい。
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post time: 20:10, category: 日常, author: ナカムラユエ

エイプリル・フールの嘘だとおもいたかった。

きのう病院より連絡があり、自発呼吸が弱くなっているため、呼吸器をとりつける、とのこと。

病室に向かうと、母は、きのうと変わらずのどをぜろぜろ鳴らし、すこしでも多くの酸素を得ようと体をのけぞらせていた。
眉間はきつく皺が寄り、目尻には大粒の涙が、唇は荒れ血が乾いてひび割れた大地のようになっている。

しかし、ベッドを取り囲むように設置された経管栄養の管、酸素吸入の管、痰吸引の管、心電図の管が、きのうまでの世界とは絶対的に異なる禍々しさを醸し出していた。

ナースに、家族以外の面会をどうするか尋ねられ、できるだけ会わせてやってほしいと答える。
しかしその願いが叶えられるか否かは、その日の母の体調次第となる。

けさ過呼吸で倒れそうになったのはわたしであって、母ではない。
母ならば駆けつけてくれるのは薄桃色の制服を着たナースで、ダークカラーのビジネススーツを着たサラリーマンではない。
そして母ならば、手を握って枕元に寄り添う娘がいるけれど、わたしはたった一人で起き上がらなければならない。
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post time: 22:31, category: 日常, author: ナカムラユエ

わたしの人生のうち、どこまでが嘘で、どこからがほんとうなのだろう。

ずっとわるい嘘にだまされて生きているような気がする。

未来というのはほんとうにあるのか。
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post time: 22:08, category: 日常, author: ナカムラユエ

8月5日に、在宅での単身介護生活がもはや限界に達していた実母を難病患者専用病棟に入院させ、その3日後、養父が死にました。

きょねんの夏は暑かったのかどうなのか、それすら記憶がありません。
ことしがきょねんの続きであることすら、にわかには信じられないほどなのです。

信じられなくとも事実の記録として。
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post time: 01:08, category: 日常, author: ナカムラユエ

もうじき桜が咲きますね。

去年の桜は思い出がふたつ。

一つは養父の病室からみた桜。

駐車場の真ん中の、おそらく病院が建つまえからその地に根をおろしていたそれは見事な染井吉野が、父の病室の窓にちょうど、すっくりと枝を伸ばしているのでした。
もちろん窓を開けることはありませんでしたが、おそらく見舞客の肩にのってやってきたのでしょう、なにかの拍子に花びらがはらりはらりと小さな舞を披露することがありました。
父は昨春、体調すぐれず、両腕を柵に結わえつけられたまま、目はうつろで口には酸素マスクを、しゃべることも見ることすらままならず、父の瞳には果たしてあの見事な桜が、人生における最期の桜が映ったのかどうか。

もう一つは、公園の夜桜。

そのころもう認知症の症状が顕著になってきていた実母をともなって、外出したのでした。
夜桜見物と洒落込みたかったのに、母はお夕飯の心配ばかりしていました。
お料理はできなくなっていたのです、お料理というのは段取りが必要で幾重にも作業を積み重ねていかねばなりませんから、作業の一つひとつが消失してしまう病のひとには、とてもむつかしいものなのです。
その晩は中華料理屋でラーメンを食べました。
子どものころに何度か行ったことのあるお店でしたけれど、すっかり店構えが変わってしまって、まったく知らない場所のようでした。

どちらの桜も、ともに見ることはもう永遠にないのです。
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post time: 00:58, category: 日常, author: ナカムラユエ